Ken's Bar Online
昨日12月23日は、この1か月間楽しみに待っていた平井堅さんのライブでした。
ケンズバー(オンライン)、初のリモートライブです。
曲数がいつものライブより少なかった点は少し残念でしたが、とても素敵な時間でした。
「この曲はあーだよね、こーだよね」と主人と話しながら聴いたり、調子に乗って一緒に口ずさんだり、「この曲来たか~」と盛り上がったり。普段のライブではできない楽しみ方ができました。
リアルタイムで動いて話して歌っている堅ちゃんの姿を、1年以上ぶりに拝見しました。
コロナの怖さが急に現実感を増した
なぜオンラインライブだったのか、そしてなぜこの1年ほとんど活動を休止していたのかといえば、もちろんコロナの影響です。
堅ちゃんの言葉として、世界中が大変なことになっているという現状、いつになるか分からないけれど、何も気にしないでたくさんの人と触れ合えるときがきっと来る、夜は必ず明けるものだからという話を聞いていると、急に私の中でコロナへの怖さが現実味を増しました。
今さら現実味? と思われるかもしれませんが、私はこれまでコロナのことを楽観的に捉えていたように思います。
急に今のような状態が始まったわけではなく、「なんか中国の方で変なウイルスが出てるらしいよ」から始まり、客船が足止めを食らい、日本にも入ってきたと騒がれ……。
そんなふうに段階を経て、じわじわと今のような状況になってしまったという印象です。
だから、少しずつ混乱に順応してきた。
何人もの方が亡くなられたり、苦しい闘病を強いられたり、著名な方が亡くなられたり……。そういった情報からショックを受けつつも、どこか深刻なものとして捉えないように、心にフィルターをかぶせて過ごしてきた気がします。
むしろ個人的な変化としては、主人の在宅勤務が始まって、いい機会だったのだとプラスに捉えようとしていました。
手洗いやうがい、消毒はしっかりするし、それなりに密は気にして、家族以外とは食事をせず。けれど、きっと大丈夫。
コロナを舐めているわけでは無いのですが、深刻なものと捉えすぎないように、と思ってきました。
けれど、大好きな堅ちゃんの言葉として、この1年をどんな思いで過ごしてきたか、そして今後への希望を聞いていると、私の中で急に「世界中が今大変なんだ」という怖さが襲ってきました。
「歌手」以外のアイデンティティーを
堅ちゃんはこの1年、曲のプロモーションをしたりせず、ただ黙々と1日1日を過ごしてきたそうです。
その中で、「自分は歌手以外のアイデンティティーが無い」と思ったそうです。
誰かと話していても、まずは「歌手としての仕事はどうなのか、上手くいっているのか」という話から始まり、家族や友人でさえもそうなのだと。
自分から「歌」をとったら、何も無い……。そんな思いに駆られてしまったそうです。
堅ちゃんに限らず、仕事や趣味に全力を注いできた人は、コロナの影響でその活動がストップしてしまうとそういった状態になったのかも知れませんね。
そこで充電期間を過ごすというのは、確かな印税が入るスターにしかできないことですが……。
そんな思いがあって、「人間、平井堅」として過ごしたいと思い、こういった、ほとんど活動の無い1年になってしまい、ファンの方には申し訳なかったですと話していました。
ライブが終わって
素敵な時間が終わって、私は号泣してしまいました。
あまりにもこの1年の近況報告が少なく、健康を心配していたけれど元気そうだったことへの安堵感。
画面越しだけれど、素晴らしい歌を聴かせてもらった喜び。
コロナが急に壮大なものと感じられ、襲ってきた恐怖心。
堅ちゃんの歌だけでなく、いろんな言葉を聞けた嬉しさ。
もしかしたら、次の堅ちゃんの姿を見られるのはまた1年後なのかも知れないという虚無感。
いろんな思いが一気に溢れて、情緒不安定になり、泣いてしまいました。
すぐに泣き止みましたが、ぼろぼろと涙が溢れ、声をあげて泣きました。
今日からまた、心にフィルターをかけて
昨日はきっと、堅ちゃんの歌声を少しもこぼさず取り込もうとしたために、心にかけていたフィルターを外してしまったのだと思います。
もしくは、堅ちゃんの歌声を聴いているうちに、自然とフィルターが外れた。
だから、コロナのこととか、堅ちゃんにまたきっと長く会えないこととか、いろんな思いがダイレクトに心に入り込んできて、苦しくなってしまったのだと自己分析。
今日からまた、良い意味でのフィルターを、心にかけて過ごしていこうと思います。
大したことない。
どんな悲しみも苦しみも、きっと、大したことじゃない。
自分を「ボンヤリの膜」に包んで、守ってあげながら、普段の生活に戻ります。