ベランダで電話
先日、主人と車に乗っていたら。
道路横のアパートの1階の部屋から、若い男性がベランダに出てきて、スマートフォンで通話をし始めました。ときより、室内をチラチラ見ながら。
この情景を見ただけで、私の脳内にはいろいろな物語が生まれました。
おそらく男性のアパートの室内には、お客さんが来ています。チラチラと中を気にしていましたからね。そしてその相手には聞かせたくない内容の電話がかかってきたのでしょう。
お客さんは彼女でしょうか。それとも電話の相手が彼女でしょうか。もしくは両方とも彼女でしょうか。
どちらかが、お母さんとかだったりする可能性もありますよね。
なんにしても、来客には聞かれたくない相手とのお電話。物語が広がりますね。
ちなみに、ベランダにはタバコを吸いに出たわけでは無さそうでした。タバコは持っていませんでした。
私は見た情報と、そこから考えた物語を主人に聞かせます。
「よくそんなの見ただけで、いろいろその先が考えられるよね。俺なんか、ベランダに人が出てきたな~で終わりだよ」と、主人。
「その能力、感心しちゃうよ。でも、そんなんで生きていくのつらいでしょ?」
気づくことはつらいこと?
ぐさっと刺さる一言。
「つらいでしょ?」
つらい、と思うことは確かに多いです。
どんな短い情報をみても、「その先」がババババっとつながって。
いろいろなことに気づいて、だから相手のずるさや矛盾やごまかしにも気づいてしまって。
相手に確かめなくても、相手がその行動をとった理由や経過をいくつか想像してみる。そしてどのパターンでも悲しいじゃんとかムカつくわとかなって、嫌な気分になる。
たとえば。
信頼する相手だと思っていたのに、結婚式に私を呼んでくれず、報告もなかったあの子のことを思い出す。
①招待客を考えるときに、そもそも私のことなんて浮かばなかった。
②私のことは浮かんだけれど、人数の関係などいろいろな理由から、私のことは呼ばなく良いと判断した。
③「こんな子がいるんだけど、呼ぶかどうしよう」と一応旦那さんに相談はしたけれど、呼ばなくて良いんじゃない? という結論になった。
あとから、偶然に結婚の話を知った際に、私を式に呼んでくれなかった経緯として思い浮かんだパターンはこの3つでした。
どれであっても悲しい。悔しい。
そして、報告さえしてくれなかった理由はなんだろう。私のことなんて忘れていたから? 報告に値する相手では無いと思ったから? 式に呼ばなかったから、報告だけというのが気まずかったから?
この出来事はもう6~7年前ですが、いまだに私の心に澱として溜まっています。
高校時代、楽しいこともつらいこともなんでも共有した友人。別々の大学に入って離れてしまっても、連絡を取り合って。
病気になってからも、事情を話し一緒に市の吹奏楽団に通ってもらった相手でした。
どんな思いが、私を呼ばなくていい、報告もいらないと判断させたのでしょうか。
相手には相手の都合やきもちがある
どんなことにも、相手には相手にしか分からない都合やきもちがある。それを勝手に悪い方に推測し、決めつけるのは「認知のゆがみ」と言うそうです。
「認知のゆがみ」を治すことは、統合失調症などの精神疾患の患者さんにとって良い治療となるそうです。
しかし、おそらく「HSP=繊細さん」にもあてはまる私。繊細さんは、いろいろなことに「気づく」ちからが高く、その先を予想する力に長けているそうです。
その力をもっているとしたら、私の勝手に想像した相手の事情は、あながち間違いでもないように思う。
相手に確かめたわけではないけれど、いくつかのパターンが想像できて、そのどれが答えであっても悲しい。
私に想像しきれていないパターンがあるのだろうか。
だったら、「報告していなくってごめんよぉ;;」なんていうラインではなく、もっと何か理由を言ってくるのでは?
アパートのお兄さんの事情も、そのかつての友人の事情も、完璧な正解は分からないけれど。
人と仲良くなったせいで傷つくのはもう嫌です。
傷付いていないふりをして、結婚のお祝いを送って、年賀状のやりとりまで快諾して。
結局、許すことができず、年賀状は3年くらいで私は離脱して。こちらが送らなくなったら、向こうからも来なくなりました。
ラインもメールも電話もできる時代なのに、年賀状が滞ってそれでお終い。
高校時代の、大切だった友人との関係を思い出すととても悲しい。
でも、病気の苦しみを軽減させたり、再発を防ぐためにも「認知のゆがみ」は治していきたい。
いつまでも、終わった人間関係のことをくよくよ考えたくもない。
最近、「認知行動療法」の本を購入しました。
ためになったこととか、思ったことがあればまた書きたいと思います。