数字へのこだわり
私は数字へのこだわりがとても強いです。
強迫性障害の傾向があるのだと思います。
自分の中で不吉な数字というのがたくさんあって、音楽を聴いたりテレビを見たりする時のボリュームだとか、エアコンの設定温度だとか、そういう数字を決めるときにも不吉な数字は避けるようにしています。
たとえその数字の音量やら気温やらが快適だとしても、無理にでも1度上げたりして避けるようにしています。
勉強をしていた頃も、ノートにいちいちページ数を書く派なのですが、不吉な数字のページで終わりたくないのでちょっと多めに勉強して、さっさとそのページを過ぎるようにしてみたり。
料理をしていても同じです。
例えばサラダにミニトマトを何個入れようとか、飲み物を作るのに氷を何個入れようとか。
ウォーターサーバーからお水を注ぐのにも、何秒間ボタンを押すか数えてしまいます。
でもこれには逃げ道があって、秒数を数えるのは時計通りではなく、私の頭の中のスピードで自在に早めたり遅くしたりが出来るので、不吉な数字を避けやすいです。
1…2…3…、4、5、6……、7! とか出来るので。
ストレッチをするときの秒数も、こんな感じで変幻自在にだいたいで数えています。
でも、こうやって気にしちゃうんですよね。
いらない記憶力
私の中の不吉な数字は、ほとんどが誰かの誕生日の日付です。
もしくは部活動の背番号とか、車のナンバーとか。
思い出すと辛くなる相手、もうずっと会っていないのに未だに憎らしい相手。
そういった人たちにまつわる数字をなぜか律儀に覚えていて、あまりにも増えすぎてしまったそれらの数字を避けながら生きています。
完全には避けきれないので、そういったときは思考がグルグルするのですが、気にしないように気にしないようにと念じながらやり過ごします。
こちらが数字を気にしているだけのときはまだ良いのですが、ドンピシャでそういった相手の誕生日の日には、どうしても1日考え込んだりソワソワしたりしてしまいます。
自分の誕生日を気にしない人って、ほとんど居ないじゃないですか。
たとえその本人が気にしていなくても、家族とかから「おめでとー!」なんて言われてその日を過ごしているじゃないですか。
想像しちゃうんですよね。
あ、今日あの人は、あの子は、誰かからお祝いされながら過ごしているんだなぁって。
そう思うと、私の記憶の中にしか存在しないような気がしていたその相手が、リアルに今もどこかで生きている実在の人間なんだと実感してしまうんです。
昨日は、そんな人たちのうちのひとりの、誕生日でした。
記憶を手放したら
嫌な記憶も不吉な数字も、ぽかーんと忘れることが出来るスイッチみたいなものがないかなぁとよく思います。
そんなスイッチが押されて嫌な記憶がぽっかり無くなったら、私の病気ってもしかしたら治っちゃうんでしょうか。
辛い経験がもとで精神疾患になってしまった人が、将来痴ほう症になってその記憶を失くしたらどうなるんだろう。
元凶を手放したのに、不安な気持ちや悲しい気持ちだけは変わらずやって来るんでしょうか。
調べたらわかりそうだけれど、知りたいような知りたくないような。
でもこれ以上病気にならないように歳を取って行きたいし、死ぬまで主人のことは認識できるようでありたいです。
【追記】
藤岡康太騎手のご冥福をお祈りします。
悲しいです。